+願いの短冊+
龍神の神子によって京が救われてから四年の月日が過ぎていた。
星の一族の双子は変わらず四条の館で暮らしている。深苑は元服を経て出仕するようになったが、妹の紫姫の生活はさほど変わりがない。
四年前から付き合いのある人々は今も折々にこの館を訪れている。
「ようこそお越しくださいました、幸鷹殿」
「ごきげんよう、紫姫。先触れもなく申し訳ありません」
「いいえそのような。ご昇進されてお忙しいことと存じますのに、こうしてお顔を見せて下さって嬉しいですわ」
「こちらには無沙汰をいたしました。位が一つ進むだけで何も変わらないと思っていたのですが、あれこれと取り紛れていました」
先ごろ幸鷹は中納言から大納言に位を進めていた。
本人は控えめに言っているが、定員のある大納言に慣例を破って増員されたのだから、院の信任の篤さが伺えるというものだ。
申し訳なさそうに謝した後、何より宴が多くてと幸鷹がこぼす。
別段華やかな席が嫌い、酒が飲めないということもないが、宴が重なればその分後回しになる仕事が心配になるのだろう。
幸鷹の愚痴に紫姫は思わず微笑んだ。
「まあそれは大変ですわね。お待ちください、何か甘いものでもお持ちしますわ」
「いえ、実はこちらをお持ちしたのです。ご一緒に召し上がりませんか」
幸鷹は傍らにおいていた包みを紫姫にも見えるよう、前へ押しやった。
「私に?何でしょう」
結び目が解かれるのを見ていると、中には大きめの畳紙にはさまれた菓子。
きつね色に揚げてある唐菓子はよく口にするがこんな薄い短冊のような形ははじめて見る。
「”まがり”ではございませんのね。あ、もしかすると」
「はい、唐板です。先だっての祇園会で配られたものですが、あなたに差し上げたいと思いまして。深苑殿は祇園会には参られなかったのでしょう?」
「ええ。兄はその日は出仕しておりましたので。唐板とは厄除けの菓子ですわね。ありがとうございます」
「厄除けもありますが、以前に神子殿とお話したことを思い出したのです」
「……神子様と?」
その名がちくりと胸を刺す。いつからこうなったのだろう。
姉のように慕った龍神の神子。八葉から往時の物語を聞くのは大好きなのに、幸鷹の口からその名を聞くと嬉しい反面、苦しくなるのは。
思わず紫姫の声は固くなったが、幸鷹はそんな様子に気づくことなく、御簾の袂まで畳紙を差し出した。
「イサトと三人で京を散策した際、一緒にこれを食べたことがあります。神子殿は『おせんべいみたい』といたくお気に召されたようして。いつか紫姫と一緒に市を見て、これを食べたいとおっしゃっていました」
聞き慣れぬ名に、おせんべい?と紫姫は首をかしげる。
「神子様の世界のお菓子でしょうか。以前にまがりを”かりんとうと似ている”とおっしゃったのは覚えていますけれど。”私と同じ名前でしょ”なんてお笑いになって」
花梨がそんな風におどけたものだから、それから紫姫はまがりが好物になった。
何度も花梨の世界の話は聞いたが、あまりにも京とかけ離れた不思議な世界で、聞いた話の半分もわかっていなかったかもしれないけれど、身近なもののことなら少しはわかった。例えば食べ物だったり、着物だったり、習慣や景色の話だったり。
少しでも花梨の世界と似通ったものがあれば嬉しく、しっかり記憶に留めるようにしたものだ。だがまがり以外の菓子の話は聞いたことがないかもしれない。
「なるほど、かりんとうは確かにまがりと似ていますね。唐板も煎餅のようですし、今頃神子殿もあちらの世界で同じように甘いものを召し上がっているかもしれませんね」
「ええ……」
紫姫にはよくわからない”かりんとう”も”おせんべい”も、幸鷹はわかるようだ。
幸鷹は花梨の世界に興味を持っていたようで、よく話を聞いていたことは知っている。だから紫姫の聞いていないこともたくさんあるに違いない。
それをわかっていても、なぜか胸が掴まれるように息が苦しくなる。
自分が知らないことを知っている幸鷹がうらやましい。そして二人が他にどんな話をしたのかを全部知りたくなって、また締め付けられる。
(どうしてそんな風に思うのかしら。これではまるで嫉妬しているみたい)
嫉妬。
あまり縁のないその言葉が妙に胸に落ちた。一瞬納得しそうになるものの、でもとまた疑問が頭を持ち上げる。
嫉妬だとしたら、誰に?どちらに?
「紫姫?」
さすがに言葉少なになったのを怪訝に思ったようで、幸鷹が御簾の向こうから呼びかけてくる。
はっと口元を押さえ、紫姫は小声で詫びた。
「も、申し訳ございません。あの、神子様のことを思い出してしまいまして」
この唐菓子を口にすればきっと落ち着くだろう。
幸鷹の視線を感じながら手を伸ばして畳紙を引き寄せる。
砂糖の甘い香りがふわりと立ち上り、それだけで少し心は平らかになった。
ぱきり、と歯で唐板を割る。
「……おいしい」
硬いかと思えば、口の中でほろほろと崩れる静かな甘さ。
「おいしゅうございますわ、幸鷹殿」
「それは何よりです。どうぞ深苑殿や尼君にも差し上げてください」
ほっとしたような声で幸鷹は告げ、立ち上がろうとする。
「それでは私はそろそろ失礼します」
「まあ、もうですか?」
「実は参内する途中でして。それをお渡ししたいと急に思い立って立ち寄らせていただいたのです」
「そうでしたか。参内でしたらお引止めもできませんわね……」
途中から会話が気がそぞろだったので気を悪くさせてしまったのだろうか。
紫姫は思わず引きとめようと身を乗り出したが、幸鷹の言葉に浮かせた腰をそのまま下ろすしかない。
できることといえば、謝意を伝えることが精一杯で。
「あの、唐板をありがとうございました。祖母にも兄にも分けまして、大事に頂戴します」
「ますます暑くなるので心配なのですよ。厄除けですから全部お二人に分けてしまわず、ちゃんとあなたも召し上がってくださいね」
「はい。幸鷹殿のお心遣いですもの。私もしっかり頂きます」
妙に意気込んで言ってしまった。
幸鷹は少し目を丸くしたが、「それでは今年は安心ですね」と微笑んで今度こそ席を立つ。
後ろ姿が渡殿に消えていくのを紫姫は見送った。
一緒にどうですかと持ってきたのに、幸鷹は一口も手をつけていない。
おそらく一緒にというのは方便というか言葉のあやで、最初からこれを丸ごと置いてゆくつもりだったのだだろう。
いつも暑さ負けして細りがちになる祖母や紫姫を案じてくれたのだと思う。その半面で花梨との思い出話も本当なのだろう。
幸鷹の心遣いが嬉しい。なのにそれだけでは消えないしこりが残る。
紫姫は唐板を一枚取り上げて、そっと口に含んだ。
(この唐板と同じように、私の胸にあるものが溶けていけばいいのに)
嫉妬だと思った何かが溶けてほしい。
誰に向けたものなのかを今はまだ考えたくなかった。
とうとう書いてしまった、というのが今の心境です。
2から4年後なので紫姫が14歳、幸鷹さんが27歳。ちょっと年の差がありますが、そこは目を瞑っていただきたい。
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