+彼方+




 慌しい年の瀬に牛車を急がせて来てみれば、部屋にその人の姿はなかった。
 まさかとは思いながら雪に覆われた庭に下りてみると、築山の陰にしゃがみこんでいる。

 良かったと友雅は思わず呟いた。
 しばらくぶりに見た、肩を少し越えた切り下げ髪と動きやすそうな水干姿は、数ヶ月前の彼女を彷彿とさせる。
 思わず一緒に京を歩き回っていた頃のように錯覚した。もう彼女は龍神の神子ではないのに。


「――神子殿、と久々に呼びたくなる姿だね」

 友雅が雪を踏む音にあかねは気付かなかったらしい。
 思いのほか驚かせてしまったようで、あかねは小さく悲鳴を上げて、文字通り飛び上がった。

「友雅さん!ああ、びっくりした」
「すまなかったね。驚かせるつもりはなかったのだけれど。私に気付かないほど君を夢中にさせた、この雪を嫉むとしようか」
「もう、何を言ってるんですか――あ」

 友雅の軽口に笑っていたあかねだが、はっとしたように袖の雪を払い落とした。

「ふふっ、そう慌てずとも構わないよ、可愛い人。雪遊びを咎めるつもりはないのだから」

 友雅の言葉にも、どこか後ろめたいのかあかねは「ごめんなさい」と謝る。

「おや、君が何を謝るのかな。むしろ私は安心したのだけれどね」
「安心?どうしてですか?」

 不思議そうに目を見張ったあかねの髪がさらりと肩を滑った。
 この世界に残って左大臣家の客人として過ごすあかね。その短い髪に普段はかもじを付け、袿を着て部屋に閉じこもっている。
 彼女が残ってくれた喜びと、反面で、多くの無理を押し付けている事実は時に友雅の重荷にもなり得る。

「君がこうして軽やかに動き回る姿も、私には可愛くてならないということだよ。――でも、私の手の届かない彼方へ行ってしまってはいけないよ」

 はぐらかすように答えておいて、友雅はあかねの手を取った。
 友雅の手にもひりりとした痛みが走るほど冷え切っている。この肩を引き寄せたならば、身体も相当に冷えていることだろう。

「手を赤くして。私の姫君をこんなにも夢中にさせるなんて、一体何があったのかな?」
「……雪遊びです、たぶん、すごく普通の」

 確かに足元には小さな雪だるまや、単なる雪玉が転がっている。
 友雅のおかしげな視線に、ばつが悪そうにあかねは打ち明けた。
 先ほどまでは部屋で大人しく手習いをしていたこと。
 でも手習いに飽きてしまって、どうしようかと思っていたときに庭の雪世界が目に入ったこと。

「新年の準備で藤姫もみんな忙しそうだから、相手をしてくれなんて言えませんし」

 あかねはふらふらと庭へ降りた理由をそう締めくくる。
 そしてかもじを外して、水干姿に着替えたということらしい。

「明日はおおつごもりだから、どこの屋敷もそうなのだろうね」

 友雅はちらりと寝殿に目をやった。
 今は無人の渡殿も、明日は鬼やらいの人が慌しく駆け回るのだろう。

「藤姫から聞いているかな?一年の穢れは、その年の内に全部祓ってしまわなければならない。次の年に持ち越しては、幸いを下さる歳神様をお迎えできなくなってしまうからね」

 はい、とあかねが頷く。

「今年は特に、鬼の一族とのことがあったから、宮中でも念入りにお祓いをするらしいですね」
「ああ。明日の大祓いは慌しくなりそうだよ」

 京の中心、最大の清めである宮中の大祓いが終われば、何事もなく新年を迎えられるはずだ。
 そう。何事も、なく。
 じっと友雅は目の前の少女を見つめた。

「友雅さん?」

 異形の力に呼ばれ、龍神の加護によりこの地に残った娘。
 龍神の加護があるのだからと思いながらも、時おり脳裏を掠める怖れがまた湧き上がる。
 その不安は、彼女が龍神の神子だった頃と同じ格好をしているからと、それだけなのだろうか。

「……なぜだろうね。年が改まり、すべてが祓われてやっと、君がこの世界の住人となるように思われてならないのだよ」

 明日の鬼やらい、今年の穢れが祓われる中で、穢れと一緒に消えてしまったらどうしよう。
 不意に胸を突く不安は、それだけ彼女を失いたくないという心の顕れだった。
 年末の忙しい中でも、せめて一目と会いに来てしまうくらいに。
 かの人がどうか、霞のごとく消えていませんようにと牛車に揺られながら願って。

「本当に、どうしたことだろう。君が私の前に現れてもう随分経つというのに今更だ」

 思わず零れた友雅の弱音に、あかねが驚いたように目を丸くする。
 きっと彼女は思ってもみなかったのだろう。
 いつも余裕たっぷりを装い、雅び男のふうに言葉をもてあそび、芯を他人に見せない男がこんなにも心弱いなどとは。
 それを知られたところでもう離しはしないのだけれど。

 預けられていた手に唇を寄せる。
 常ならば顔を赤くしてうろたえる筈の彼女が、今日はもう一方の手で、同じく友雅の空いた手に触れる。労わるように。
 友雅もあかねと同じくらい冷えてしまっていた。もう手を重ねても痛みはない。溶け合う、とはまた違う何か。

「安心して下さい。私、どこにも行ったりしませんから」
「……そうだね」

 君は消えたりはしない。呟いて、友雅はあかねを引き寄せた。
 冷たい雪の中であえかな温もりがこんなにも胸に滲む。

「ずっといてくれまいか。此方に――私の傍らに」


 龍神ではなくあかね自身に願う。
 それがこの年末に必要な儀式のように思えた。





 「あなた」「こなた」でワンセット。
 友雅さんを書くのが楽しかったです。自分でもちょっと意外ですが。


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