+無心に歩み寄る位置+
今日は甘味処で出す和菓子を作ることになっている。
一旦会議室に集合しなければならないので、静は少し早めに会議室へ向かっていた。
「あれ、開いてる」
会議室のドアがちゃんと閉まっていない。
誰かいるのかと思って静がそっと室内を覗き込むと、柳がドアに背中を向ける形で椅子に座っているのが見えた。
ぴんと伸びた背筋は見ているこちらまで気持ちがいい。
(もしかしなくてもこれ、書道中よね。入ったら邪魔かな)
もし集中しているところを驚かせて、書き損じなんてさせてしまったら申し訳ない。
どうせあと10分ほどで集合時間になるんだし、それまでどこかで休憩でもしていようか。
腕時計を見て静が考えていると、ドアが開いて柳が顔を出した。
「広瀬、終わったからもういいぞ。気を遣わせてすまなかったな」
「え、先輩気づいてたんですか」
驚く静に部屋へ入るよう促しながら、こともなげに柳は答える。
「人の気配がしたからな。それにそろそろお前が来る頃だろうと予想していた」
「ドアを開けていたのは、廊下の様子を知るためですか?」
「少し冷房が強かったからというのもあるが、まあそうだ。集中しているところに突然人が入ってくれば、さすがに俺も驚くからな」
過度に集中しないためには完全に音を遮断しない方がいい。
そう言って柳は今度はちゃんとドアを閉めた。もう書道は終わったから、廊下の物音は要らないということらしい。
「でもそれだと、あまり書道に入りこめないですね」
「書道は心を落ち着かせる意味もあるだろう?今日はそちらの目的で書いていたから構わない」
書道道具を片付ける様子は手馴れていて、いつもちょっとした時間で書道をしていることがよくわかる。
「そういえば先日、お前も書道をすると言っていたな。あれから何か書いたのか?」
「いえ、準備はするんですけど、書くことが思いつかなくて結局やめてしまうんです」
「それは勿体無いな。せっかくの精神統一なのに」
「そうなんですよね。もう雑念ばかり浮かんで――」
「雑念?」
余計な事を言いかけた静は慌てて口をつぐむがしっかり聞かれていたようで、柳は不思議そうに反芻した。
聞き返されても答えられるわけがない。ここ数日、書道を試みるたびに同じパターンに陥っているだなんて。
「あ、そのですね……何を書こうか考えていたら、だんだん書道そっちのけで考え事に耽ってしまうんです」
具体的な内容を省けば、間違ったことは言っていない。
だが相手は参謀と言われるデータマン。静は深く追及される前に逃げ出すことにした。
「えっと、柳先輩、机拭きますよね。私ちょっとタオル濡らしてきます!」
「広瀬?」
唐突な話題変更に戸惑った様子の柳を残して静は廊下の水道場へ向かった。
水に手を浸して少し落ち着いた頭で考えれば、いくらなんでも「何を考えていた?」とは聞かれなかっただろうし、逃げ出す方が余計に怪しいと思われるかもしれないなんて思い始めるが、今更どうしようもない。
「絶対変に思われたよね……」
このところ自分はおかしいと静は思う。
書道に関してもそうで、半紙を前に何を書こうか真面目に悩んでいると、柳先輩ならどんな言葉を書くのかとふと思う。
そこからはもう、いつも姿勢がいいなとか綺麗に字を書くんだなとか、とりとめのないことを考えるうちに時間だけが過ぎている。
元々集中力はあまりないとはいえ、この状態は異常だ。
(顔、赤いな)
鏡に映る自分の顔を見て、静は大きな溜息をついた。
タオルを濡らしたらすぐに戻らないといけないのに、このままでは戻れない。
タオルを絞りながら静が会議室に戻るタイミングを図っていると、硯と筆を手にした柳が歩いて来る。
硯や筆は洗わないとしまえないのだから、逃げたところで意味がないのだった。
本当に馬鹿だなと静がパニックを起こしかけていると、隣で硯を洗い始めた柳が口を開いた。
「雑念と言うのかはわからないが」
「……はい」
「今日は俺も考え事をしながら書いていたぞ」
どんな事か聞いていいものかわからず、静はそうなんですかと相槌を打つにとどめた。
「お前は10分前に来るだろうからそろそろ片付けた方がいいなと思ったし、そういえばあれから何か書いたのだろうか、なども考えていたな」
「そ、そうですか」
「無心になるというのは難しい。あまり思いつめるな」
「あ、はい」
何も変なことは言われていないのに、なぜかすごく恥ずかしい。この人はどうしてこんな涼しい顔をして言えるんだろう。
いつも人のことを予想外だと言うけれど、絶対に先輩の方が他人の予想を外すのが上手に違いない。
また顔が赤くなるのを感じながら、静はタオルを固く絞った。
ゲーム中で柳が戸惑っている様子はありましたがヒロインにはなかったので、こんな感じならいいなと。
お互い意識してる微妙な関係は大好物ですから。
BACK