見えない壁 (忍人×千尋)


 陛下と呼ばれ、葛城将軍と返す。
 それはすべて自分の望むままに得ようとした姿の成れの果て。
 破魂刀を使わせないことで彼から誇りを奪い、だからといって彼自身をも失うことは許せず、その身一つをそばに置くことを望んだ。
 この目に見えぬ隔たりは彼が生きていることの代償だ。
 そう思えば、何を後悔することがあるだろう。




「王は働きづめでお疲れのようです。少しのお時間しか差し上げられませんが、午後からはごゆっくりなさって下さい」

 即位から二月ほど経ったある日、狭井君が珍しく休みをくれた。
 一通り橿原宮の中で自由を満喫した後、千尋の足は無意識のうちに天鳥船があった場所へ向かっていた。
 供を連れていないことに気が咎め、戻るべきか迷いながらも足を運んでいたが、やがて三輪山の途中で気づく。

「そうだった、サザキたちは飛び立ったんだもの」

 そう、あの場所に行っても何もない。
 かつて天鳥船は何もない草原の中にぽつんと降り立っていた。今はその何もない元の草原に戻っているのだろう。
 風だけが通り過ぎる葦原。その状態に戻ったところで得られるのは、誤魔化しようのない事実しかない。 
 隣に誰もいないという現実。

「……っ」

 周りには誰もいない。我慢する必要も、我慢できるだけの余裕も、もう千尋には残っていなかった。
 嗚咽が漏れ、気が緩んだ千尋はずるずるとしゃがみこむ。

 天鳥船で過ごした時間は幸せだった。
 今もそれに劣らず幸せなはずだった。
 破魂刀を棄てさせてから今まで、ずっと彼はいつも目の届くところにいる。
 苦しむ姿も青い顔もない。いつでも元気な彼を見ていられるのに。

「忍人さん」

 幸せなのにどうして。
 私はいま、しあわせなのにどうして、あの場所へ行きたいと思うの。
 帰りたいなんて思ってしまうの。

 橿原宮ではこんなに気も涙腺が緩むことなどなかったのに、今は上手にコントロールできない。
 思わず溢れた涙で千尋の視界がぼんやりと滲んだ。

 そこへ人の足音と声が響く。

「千尋、危ない!」

 一瞬、幻かと思った。けれど現実である証拠に、一拍遅れて突き飛ばされる。
 地面にぶつかった衝撃でこれが現実と思い知る。
 背後で土砂利が荒れる音が暫し続いて、止んだ。

「もう大丈夫です。お立ち下さい、陛下」

 陛下と呼ばれ、葛城将軍と返す。
 ずっとそうしてきた。今もそうあるべきなのだろう。

 だが上手く頭が働かない。千尋はぼんやりと振り返り、忍人の足元にあるものを見た。尻尾だけのそれは。

「……蛇?」
「襲い掛かろうとしていたので、思わずご無礼を。咄嗟のこととはいえ、陛下を突き飛ばすなどお詫びのしようもございません」
「そんな……ありがとうございます」

 千尋の言葉に忍人の眉が寄った。

「お怪我はありませんか」
「はい、大丈夫です」
「私にそのような言葉遣いをなさる必要はありません、陛下」
「え?」
「誰もいないとはいえ、あなたは女王陛下。以前と同じようには話せません」
「……そう、ですね」

 きっぱりとした拒絶が千尋の頭を冷やしていく。
 会わなければよかった。こんなに近くなければ、まっすぐその顔を見られないことも、たった今まで泣いていたことも気づかれはしないだろうに。

「――礼を言います、葛城将軍。あなたがいなければ蛇にかまれていたところでした」
「恐れ入ります。しかし、お一人とはいささか無用心ではありませんか」

 地面に座り込んだままの千尋を引き起こしながら、忍人は諫言する。
 先ほどからの厳しいようで真っ直ぐな正論の数々。この物言いは初めて会った頃と何も変わっていない。


 きっと、変わってしまったのは私の方なんだ。
 ”中つ国の将軍”だった彼を好きになって、そのとき初めて、その生き方が自分の望むものではないと気がついただけ。
 それまで何も気づかなかったくせに、手のひらを返して彼を詰った。

 そう思うと千尋は自嘲の笑みしか浮かばなかった。
 隣に立ってもらう資格などない。
 こうして将軍としてでも留まってくれていることに感謝しなければいけないのだろう。

「葛城将軍」
「はい」
「ごめんなさい。宮へ戻りますから、供をしてくれますか?」

 そう言ってみると、何を当たり前のことを、と言いたげな様子で忍人は頷いた。

「承知しました。先導はお任せ下さい」




 言葉もなく、来た道を二人で戻る。少し先を行く忍人の背中は、頑なに千尋を拒否しているかのように見える。
 気まずい沈黙でも千尋は自分から声をかけようとは思わなかった。
 何かを間違えたら今度こそ忍人が消えてしまうような気がする。
 ほとんど無意識だった行きと違い、帰りの今は目の前の忍人で頭がいっぱいだ。
 いや、そうすることがあまりにも自然だったから気づかなかっただけだ。行きもきっと忍人のことだけを考えていたのだろう。

「どちらへ、行かれたのですか」
「え?」
「あのような山中に、王がお一人で」

 意外にも沈黙に負けたのは忍人のほうだった。
 千尋は沈黙も何よりも、先を歩く忍人の背中を見つめて泣きそうになっていたから、それどころではなくて。

「天鳥船のあった葦原に行きたくなったの。どうしてかしら」
「もうあの場所には何もないでしょう」
「そう、だと思います。きっと今頃は風だけが、あの頃みたいに強くて……っ」

 思わず声が震えた。
 驚いたように忍人が足を止めて振り返る。微かに見える狼狽は何のためだ。

「さっき、『千尋』って呼びましたよね」
「……お聞き違いでしょう」

 また背中がこちらを向く。一旦堰を切ってしまった言葉は千尋自身にも止められない。

「忍人さん」
「臣下に敬称は必要ありません、陛下」
「忍人さん」
「………………」
「忍人さん、忍人さん」
「…………っ」

 背後から抱きついた。
 振り向かまいと頑なな背中は、抱き締めれば温かい。生きているから。
 けれど引き換えに忍人に何かを捨てさせた。何かをゆがめてしまった。

「ごめんなさい」
「な、にを」

 その温かさを喜ぶ自分に対してまた嫌悪を抱こうとも、この温もりは愛しかった。

「ごめんなさい。ありがとう、忍人さん」
「君は、何を謝るんだ……!」

 搾り出すような低い声で忍人は言った。
 回した手に大きな手が重なる。驚いて身を引こうとした千尋を逃がすまいとするように力が強くなる。

「君が謝ることはない。何一つだ。君が選んだように、俺も選んだだけのことだ」
「選んだ?忍人さんが?」
「破魂刀を使い続けることもできた。命令が気に食わないと出奔することもできた。だが、剣を捨てて留まることを選んだのは、単なる中つ国じゃない。君の国が見たかったからだ」

 それを、君の側で。

 確かに忍人は呟いた。触れている背中を通して千尋はそれを聞いた。

「何か辛いことがあるのか?君が泣くのを俺はどうしたらいい。なぜ君が泣くんだ。謝るんだ。俺は後悔していないのに」

 私も後悔なんてしていない。
 さっきまでは自分に言い聞かせているだけだったそれが、忍人の言葉を得て、千尋の中で真実となる。

「私も、後悔、していません。だから側にいてください」

 欲張りになった私の側に。
 そうしたらもう辛くない。一人で泣いたりもしない。


 そこから先は声にならなかった。
 忍人も何も言わなかった。ただ、泣きじゃくる千尋をきつく抱きしめた。




  ちょっと長くなりましたが……。BADエンドの二人が廊下で無言ですれ違うあれ、切なくて好きでした。
  そこから仕切り直せたら忍人さんが死ぬこともなくベスト展開なんですけどね。




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