+最後まで+





 たとえ嫁ぐことが決まっても、その当日まで日常というのは変わらないものだった。顔を合わせれば婚儀の話ばかりする周囲を除いては。
 自分のたしなみは相変わらず琴でなく武芸であったし、嫁入り前にそんなことばかりするなと咎める兄の語調も、まさに嫁入り前となった今でも無理に和らがず、厳しくなりもしなかった。
 心の隅に追いやっても、やがて河の向こうから見知らぬ男がやってくることは変わらない。自分の心の中がそのまま空に反映してくれれば、きっと拒むような雷雨を降らせるだろうに、天気はここのところ、ずっと晴天だった。
「……嫌な陽気」
 空に毒づいても、きっと誰もその意味に気づきはしないだろう。だからこそ、安心して呟いた。
 この国を離れることへの心残りは、挙げればきりが無かった。この国の人々はもちろんのこと、馴染んだ私室の空気も、調練場の埃っぽさも、たまに降りる庭園の和やかな花の匂いも、離れてしまうのだと思えば、妙に心に引っかかる。
 今も自分の側には、見慣れた顔があった。鍛錬で暴れすぎたり騒ぎを起こすと、兄はいつも引き合いに彼を持ち出した。歳もそう変わらず、ましてやもっと振る舞いを考えなければならないお前がそれでどうする、と。陸遜は兄の横で困ったような苦笑いを浮かべて、兄と自分を見比べていたものだ。
 陸遜の今の顔は、そのときのものを思い出させた。
「きれいな空ですよ」
「昔から、天が荒れればそれは世の中が間違っている報せだっていうじゃない」 
 やがて見知らぬ夫がやってくる河を前に、二人でぼんやりと話す。以前は珍しいことではなかったけれど、今の自分にしてみればある種の威圧にしか見えない。嫌でも頭はそのことを考えてしまう。
 だから、せめてこの河だけでも氾濫して、いっそこの国に来る気も失せてしまえば良いのに。
 諭すように、一蹴するように陸遜は答えた。
「天が荒れるのにも、覚悟がいるのではないでしょうか。ただひとつの間違いを伝えるために、たくさんのものを犠牲にしなければいけないのですから」 
「そうやって、ただの思いつきになんでも完璧な答えを返すのは良くないわよ」
 わたしは構わないけれど、と続ける。もしかすれば、陸遜はすべて承知の上で言っているのかもしれないけれど。
 穏やかな水面を眺めていると、嘘か本気かも知れない陸遜の言葉が、いくつも思い出された。結局本当のことはわからないから、自分が望むほうへいつも解釈してきた。
 最後まで自分は、彼の本当の姿も知らないまま、この国を離れるのだろうか。呉の中で一番親しく話していた陸遜でも、結局はそうなのだろうか。
 今までの自分を何ひとつ引きずっていけない場所に、放り出される。不安や悲しみよりも、憤りが強かった。自分の為すことは本当に、これしかなかったのだろうか。たくさんの問いかけに、すべてこの場所で答えていきたかった。
「尚香様は、曖昧なものはお嫌いでしょうから」
 陸遜は笑った。何もかもどうでも良くなる、優しい笑顔が向けられる。今日だけはなんだか作為的に見えるけれど。
「そうね。きっと、そうなんだわ」
 劉備がこの地に来て、その顔を直接見れば、きっと納得するだろう。長く生き、長く戦ってきたその人を、多くの人がそうしたように慕うこともあるかもしれない。国が異なろうとそう思えるよう、自分自身でも願っている。
 その願いとはまったく別のところで、欲しい答えがある。
「わたしが劉備に嫁いだら、きっと二度とこの国に雨は降らないわよ」
「まったく降らないのも困りますね」
 穏やかな優しい空は、雲がわき立つ日があるからこそ喜ばしいのだと思う。
 それでも、ずっとこんな陽気でいればいいのだと思った。そうして少しずつ、乾いていってしまえばいい。
「きっと空は、わたしが望まない顔ばかりしてるんだわ。優しい顔をして、本当は一番欲しいものは決して降らせてくれないのよ」
 強張った顔をしているんだろう。不機嫌のひとつ先の顔を。
「荊州は良い土地です。穏やかな雨も降りますよ」
「ここを離れるまで、わたしにとっての空はここだけよ」
「……そうですね」
 もう聞けなくなるその声から、一時の感情だけで遠ざかりたかった。
 それでも、この河を越えて遠くへは行けない。まだここにいることしか出来ない。
 だから思いはすべて、ここに滞ってしまう。
「……わたしは悔しいのよ。あなたとずっと顔を合わせてきたけど、結局、わたしたちにとって一番確かなものは、主従であったということだけなのよ」
 婚礼が決まっても、陸遜は祝いの言葉を言ってくれなかった。彼なりの優しさであるのはわかる。もう嫌というほど周囲に聞かされたことを慮ってだろう。
 けれど、身近であった兄の、あるいは陸遜の言葉でなければ、いつまでたっても覚悟が決まらないのだ。迷わせるだけ迷わせて、最後は時に流されるのは嫌だった。
「私は、尚香様の姿が無くとも、いつも貴女のことを思い浮かべます。貴女が呉を思い出すとき、私もその中にいると信じています」
 陸遜は、和らいだ顔をしていた。激しいほどのやるせなさも、ただその空気に包まれていく。
「本当に確かなものは、信じる以外どうしようもないのでしょうね」
____そんなことはとうにわかっている。そう反論したかった。陸遜はそう言われることすら知りながら、こんな顔をしている。
 自分がどうしようもない場所にいるからこそ、逃げないで受け止めようとしている。泣いてもわめいても、行かなければいけないのだ。彼と違う道を。無理やり背を押されるよりも深く、冷たくそれは伝わってくる。
 彼に甘える最後の機会なのだ____ありとあらゆる怒声を、かろうじて押しとどめた。陸遜は優しい。冷たいけれど、それでも優しい。
 こめかみを手の平で押さえる。思わずついた吐息に、かすかに笑みがこぼれた。まるで兄のようだ。
 最後まで、変わらない自分でいるべきなのか。彼に変えられた自分を見せるべきなのか。わからないなりに、何かを言うべきだと思った。互いの道が別れる先にまだ希望を見るのか、それとも、すべてを終わらせようとするのか。 
 混ざり合う思いが、身体から力を奪った。泣き出したい。どこも見ず、どこへも行かず、この場所に座り込みたい。陸遜はどうして、そうせずにいられるのだろう。
「……どうして、生きていると辛いことばかりなのかしら」
 泣き出すこともなく呟けたのは、それだけだった。
「どうしてでしょうね」
 明瞭な答えが聞きたいわけではなかった。それでも、陸遜の答えは意外だった。いつもはすべてに、自分を言いくるめられる答えをよこしてくれるというのに。
「あなたにも、わからないの?」
「わからないことは、たくさんありますよ」
「でも、いつもわたしの訊いたことに答えてくれたわよ」
「そうしたほうが、印象が良いと思ったんです」
 さらりと言う陸遜の顔は、一見すれば屈託が無いように見える。
「それじゃあ、ちゃんと答えて。最後まで、わたしの知っているあなたでいて」
 陸遜は頷いた。こちらの目をしっかりと見据えると、瞳よりは柔らかい語調で言う。
「確かな真実がその先にあるからでしょう」
 余韻も残らないその言葉を受け、ゆっくりとうつむいた。涙の気配が頬を熱くする。悲しい涙でもなく、どうしてか、胸が押しつぶされそうになった。
「……今すぐ知りたいのよ」
「これから先に知ることはできます。……尚香様とこうしてお話できることは、二度と無いかもしれません。それでも私たちの言葉は、どこかで何かを得て、帯びて、形になるのだと思うんです」
 だから、行けと。それでも忘れるなと。
 自分で気づいたことは、きっといつまでも頭から離れないのだろう。そして自分が思うことこそ、最上の答えだ。だから陸遜は答えを与えず、気づかせた。
「本当にお別れなのね」
 浮かんだ思いは、諦観に近かった。迷いは少しだけ晴れていた。自分がこの国を離れるという実感を知っただけかもしれない。
 陸遜はそこで、初めてその言葉を口にした。
「どうぞ、末永く穏やかな日々を送ってください。私もそう願っています」
 周囲には愛想笑いで答えたけれど、彼にそうする必要は無い。思わず、背中を向けていた。
「兄様より歳の離れた人と、そんな風に暮らせると思う?」
 意地の悪い言いぐさだった。それでも、もう自分の言葉は何も叶わないから、それも許されて良いはずだ。
「劉玄徳は仁者と聞いています。きっと貴女にも優しい方でしょう。私もそう願っています」
 尚も言い重ねる陸遜へ、否定もされないので反論する。
「民にそうするように優しく? そんなのいらないわ」
 ただでさえ皆無に等しい可愛気が、すべて霧散していくような気がした。
 苛立ちと諦めが交じると、やり場の無い涙に変わるらしい。こらえようとした。耳の奥まで熱くなってくる。今度は無理かもしれない。
「きっと、何もかもうまくいきますよ。私もそう願っています」
 本当なのだろう。きっと陸遜は心から、自分が嫁ぐことを喜んでいる。この国のために、そして、嫁の貰い手も無いと嘆いていて兄の隣にいた身として。
 それでも、陸遜の心の中なんてどうでも良いから、最後まで自分は自分の言葉を続ける。
「嘘よ、そんなの」
 自分が望む言葉を。
「嘘です」
 音が止まったのは、気のせいだったのだろう。
 ただ耳にその言葉が焼きついた、それだけだ。
 振り返った先には、日常に溶け込んでいた穏やかな笑顔がある。
「貴女がこの場所を離れて得る幸など、なにも望んでいません。すべて嘘です。貴女にはずっと、ここにいてほしかった。だから、私の言葉を信じないでください。向こうには私が言ったような幸せは無い。早く気づいて、早く戻ってきてください」
 真剣に、笑みも消してそう言われれば、その言葉を信じたのだろう。
 けれど陸遜は、いっそ憎らしいほど穏やかな顔をしていた。誰かが聞けば咎められる、そんな言葉を事も無げに言いながら。
 あまりにも普段と同じ笑顔だから、その後にそれも嘘なのだと続けられるのかと思った。だから本気に取って返そうとはせず、陸遜の顔を見返していた。
「ご多幸を願っています」
 言葉は、それで終わりだった。陸遜はこちらを見つめて、笑った。一礼と共に、こちらに背を向けて去っていく。
 呼び止めれば、止まってくれるとわかっていた。たとえわずかな時間だとしても、彼の傍で泣けると思った。
 けれど声が出ない。胸の底から、次々となにかがこみ上げてきた。喉に引っかかったまま、音になることがない。
 どちらなの。どちらが本当なの。
 諦めて涙するより、叫びたかった。叩いても、揺さぶっても、そう聞きたかった。
 結局、それを考えるのも自分自身でなければいけないのだろう。けれど、どんな答えを出しても、もうどうしようもない。
 彼の言葉が本当であるかどうかなど、どうでも良かった。どんな答えでも、傷つけられるのは自分の想いだったから。
 陸遜はただ言っただけだ。嘘だと。けれど、相変わらず笑っていた。悲しい顔を見せてくれれば、そうすれば、もっと確かな思いで信じることができたのに。
____どちらが本当なの。
 遠のいていく背がぼやける。
 迷いは、鈍い痛みに変わっただけだった。




Ail様、素敵な小説をありがとうございますvv
陸尚はやっぱりこうじゃないと!と画面の前で思わず呟いてしまいました。
劉備に嫁ぐ尚香と見送る陸遜は、私にとって陸尚の原点です。