+あまあし+






殿が、落馬なされた。雨の日の朝、建業を離れていた周瑜にそう知らせが届いた。

詳しいことも判らぬまま、館へと駿馬を走らせた。

小雨(こさめ)の中、空気はとても冷たかった。











「殿?!」

勢いに任せて寝所の扉を叩けば、控えていた侍女が驚いて盆の上の差し水を落とした。

それよりも、殿の御身の確認が先だった。そんな周瑜の服はじっとりと濡れている。



「・・・・周瑜。」

振り返った孫権はまず割れた差し水に目を落とし、そして周瑜と目を合わせた。

その表情はどこか暗く、悲しげに見えた。そして周瑜は手早く人払いをし始めた。

「とりあえず、片づけはよいから席を外せ。そしてこの部屋に誰も近づけぬように払うのだ。」

破片を集めていた侍女、そして孫権の周りにいた侍女も「わかりました。」とだけ答えてスッと退室していった。

それを最後まで確認し、周瑜は寝台の脇へ歩み寄って簡素な椅子へ腰掛けた。

ちらりと見た窓の奥は、今だ小雨だった。





「すまなかった。」





振り返れば、孫権と目が合った。彼の青い目は、何故だか少し濁って見えた。

「殿?」

「・・・皆に、迷惑をかけてしまった。」

うつむいて唇を噛む仕草が子供っぽさの残る孫権を見せ、ふっと優しい感情が起きた。

それはたとえるなら、母性愛のような。

「誰一人、迷惑だと思っているものはおりませんよ、殿。むしろ、殿がご無事で皆心より安心しております。」

彼の左足には布が巻かれ、固定されている。左足の捻挫だけで、

それは一週間か10日そこらで治ると医者が言っていた。あとは各所に小さな擦り傷があるだけだ。

「・・・・・・・そうか。」

その言葉には安堵の心があって、それでもまだ表情は変わらない。

「・・・何が、あったのですか?お一人で駆けるだなんんて、殿らしくもない。」

その言葉に孫権の肩が少し揺れたが、周瑜は何も言わない。

しばらくの間(ま)、彼は小さくつぶやいた。

「・・・"私らしくない"・・か。」

「殿?」

顔を上げた孫権の目は、周瑜を通り越して窓の外を向いた。周瑜もそれを追う。

雨は、少し強くなっている。

しばらく見つめた後、一呼吸置いた孫権がぽつぽつと話し出す。

「父上は、偉大だった。・・・・呉の基盤をつくろうとした父上は、優しかった。

 兄上は・・兄上は小霸王の名にふさわしい人物だったと思う。いつも、前だけを見ておられた。」

赤い巾を授かったときの孫堅様の笑顔を、いつも隣で夢を語った孫策のその横顔を、周瑜は思い浮かべた。

「・・・・・・・一人で駆ければ、父上や兄上に近づくことが出来ると思ったのだ。」

その言葉にうなずくことで、周瑜は静かにその先を促した。

「誰も連れず周りを見ず、ただ前を見て駆ければ・・・真っ直ぐに進んでいれば・・・」

そこで一端途切れ、孫権は袖口をぎゅっと握り締めた。

その手を自身が、周瑜が見つめる。相変わらず周瑜は何も言わない。

沈黙のまま、孫権がまた一呼吸置く音が2人の耳に届く。

「しかし、駄目だった。」

そこで顔を上げ、彼は曖昧に微笑んだ。痛々しい笑顔に、周瑜は眉をしかめる。

「私は、真っ直ぐ進むことが恐ろしかった。・・それが何故なのか、今日はっきりと分かった。

 父上も兄上も、真っ直ぐに生ておられた。・・・・しかし、2人とも志し半ばで逝ってしまわれた・・あまりにも、早く突然な死だった。」

「・・・。」

「・・・真っ直ぐ生きることが怖いのだ、周瑜。」

「・・殿。」

言うべき言葉が見つからず、互いに無言となる。

屋根に当たる雨音だけが部屋に響いている。パタパタパタン・・・・パタパタパタン・・・

閉じた目を開け、周瑜は語りだした。

「・・・・・私は、それでよいと思います。」

「・・・?」

「確かに、お二方は真っ直ぐに生きておられた。孫策などは、誰も・・私でさえも

 着いていけないほど前を進んでいたように思います。・・・そして死んだ。

 殿がそれを恐れる気持ちも分ります。私自身、思うときがあります。」

「お前がか?」

「ええ。ですから、殿もそれでよいのです。殿には人を見る目がございます。

 呉には有能な人材が豊富におります。皆、共に進んでいるのです。

 誰一人、殿だけを前へ進ませようなどと考えている者はおりません。」

そう微笑むと、孫権の表情が少し柔らかくなった。

「幸い、殿は強運の持ち主でもあります。落馬しても捻挫だけで済んだことが何よりの証拠ですよ。」

「・・・周瑜。」

孫権は胸が痛くなった。自分のしたことが愚かに思え、同時に恥ずかしく思えた。

『真っ直ぐに生きる』ということは、決して『一人で生きる』ということではないのだ。

周兪の話を聞き、ようやくそのことに気付いた。それは、





『前を向き、皆と共に生きる』





きっとそういういことなのだ。

目尻がぐっと熱くなったが、涙は流さなかった。泣く場面ではない。決して。

「・・・礼を言う、周瑜。わたしは大切なものを・・皆の存在を忘れてしまっていたようだ。」

「いえ。私はきっかけをつくったまでです。」

そう言って周瑜は席を立つ。彼の背後の窓から覗いた外は、すでに大雨であった。

「では。私はこれで失礼いたします。」

「そうか。・・・天候が荒れてきたようだが大丈夫か?もし馬が出せぬようなら、泊まればよい。」

「・・ありがたいお言葉ですが、そろそろ妻にも顔を見せませんと。また館を破壊しかねませんから。」

くつくつと笑う周瑜に、孫権も笑った。

「それでは。しばらくは療養なさってください、殿。」

「うむ。お前が来てくれてよかった。心から、礼を言う。」

もう一度礼を言うと、周瑜は一礼して退室した。











孫権は左足をかばいながら、窓のそばに立つ。窓を押して、下界を叩く雨を眺める。

言うなれば、あの時の自分は先程までの雨のようであった。しかも、その中のたった一粒だ。

弱々しく、ただ下界に降りては流れていった。

大粒の雨が、伸ばした左腕を叩く。その強い衝撃は、孫権を奮い立たせた。

「・・これからは、この雨のようになろうぞ。多くの雨粒とともに、真っ直ぐ、地を叩くのだ。」





この白い雨脚のように、前を見てまっすぐ生きるのだ。








『雨ネタで何か』という曖昧なリクにも関わらず、素晴らしい小説を頂きまして、ありがとうございます。
やはり孫権といえば父・兄へのコンプレックスが外せませんよね。
それを理解してくれる周瑜の存在に、読んでいた私も救われた思いです。