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「あたし、陸遜が好きよ。」
耳から溶け込んだ甘い響きは、この身に染みることなく流れていった。
少し雲の広がる空、夜の闇、離れた廊下の薄明かり。
夜の風は冷たく身にしみるけれど、今はまだ心地よく感ぜられた。
控えめな星たちの、その清楚なひかりはこちらまで届かなくて。
そのかわりと言ってはなんだけれど、煌々と輝く月が雲に囲まれた小さな夜空に浮かんでいる。
「少し肌寒いね。」
赤い橋に腰掛けて、右隣に座る貴女。
風邪を引かないように上掛けを頬まで寄せて、見つめる先はわたしではなく夜空の向こう。
「そうですね。」
相づちを打ちつつ下を向いた。
水面(みなも)と光りが風に揺らぎ、共に震え、混ざり合っている。
何を話すでもなく、じっと見入っていた。
よく見ると橋の下には蜘蛛の巣がかかっていて、輝いて見えた。
ふと、視線。
もちろんそれは右肩の向こうからで、けれど気付かないふりをした。
理由は自分にもわからない。
そのうちに、雲がずれて月を隠し、虫の音が聞こえだした。
変わらないのはその視線だけで。
気恥ずかしいというよりも、熱を帯びたその視線に耐えられなくなり、やがて言葉がこぼれた。
「どうかなさいましたか?」
振り向けばカチリと目が合い、驚きに肩を震わせて顔を正面に戻した貴女は、
ゆっくり吐息を吐いたようで、慎重に、真剣な目で、・・・わたしを迷わせた。
「あたし、陸遜が好きよ。」
・・・確かに聞こえた告白なのに、彼女が言い終わるころにはすべて流れていった気がした。
わたしは何かに迷い、その何かが分からなくて迷い、他人事のように感じてしまおうという自分が居た。
きっと、本当は数えられないほどの想いが身体を駆け巡っただろうに、わたしはそのひとつも拾えないでいた。
無意識に出た言葉は、ひどいものだった。
「・・・あなたはわたしに、一体何を求めるのですか?」
およそ告白の返答に似付かわしくないそれは、ゆっくりと彼女を傷つけた。
言葉が見つからない彼女が涙して、言葉を模索するわたしはただ、謝った。
その時の風は、冷たく感ぜられた。
部屋まで送りましょう。と申し出たけれど、やはり断られた。当然だろう。
彼女はひとり、夜の闇へ溶けていった。その白い後ろ姿が見えなくなるまでの時が、長かった。
わたしの心は今、泣いている。
やっと拾い上げた想いは「愛しさ」だった。
そのことに気付いてやれなかったわたしが、泣いている。
ひょっとすると、わたしは捕らわれたくなかったのかもしれない。
彼女がわたしに求めるものは愛。
わたしがわたしに求めるものは、今と変わらぬ2人なのだ。
わたしは、今の2人を壊すまいと足掻(あが)いているのだろう。
この想いを知っていながら。
足下では、蜘蛛の巣にかかった蝶が、水面のわずかな光りを受けていた。
陸遜と尚香のすれ違いや陸遜の悲しみが、蜘蛛の巣にかかる蝶とは……。
逃げられないと分かっていてももがいてしまう切なさが素敵でした。