+花音(かいん)+




花が咲いた、と知らされたのは、いつのことだったか。
今となっては、まるで思い出せないけれど。
けれど、その花の可憐さは、今でもはっきりと覚えている。
『なんだ、尚香に似合いそうな花だな』
笑いながらそう言った、父の笑顔が、今でも脳裏にくっきりと残っている。
だから。その場所を大切にしようと思ったの。
数少ない、父との思い出を持つその花を、大事に育てようと決めたのだから。





いつもと同じ時間に、尚香は部屋のドアをノックした。
「開いてますよ」
その声の調子から、今日はそんなに大変じゃないんだな、と思いながら尚香は部屋に入った。
思ったよりもずっと少ない書簡の束を見ながら、尚香は笑みを浮かべてこちらを見ている陸遜に目をやる。
「こんにちわ。いつものように、お邪魔するわ」
「かまいませんよ。丁度、一息ついたところですから」
にこにこと答える陸遜に、尚香も自然と笑みを浮かべる。
このところ、陸遜はかなりの量の仕事に追われていた。
もっともそれは、陸遜だけではなく、孫権や呂蒙も一緒だったが。
原因は、一人のせい。
「策兄様もようやく、一段落ついたのねぇ…」
「なんだか、公瑾殿が探していたようですが」
「…又?」
「ええ、又、です」
「……せっかく、ここまで片づいたのに…」
「よほど、じっと座っているのがおいやなんでしょうね」
にこにこしながらも、カウンターパンチのように入ってくる陸遜の言葉。
やばいなぁ、これは半分以上怒ってるよ…と、尚香はため息をついた。
まったくもう、いつもいつも、どうして策兄様は人の恋路を邪魔してくれるのかしら、本当にっ(怒)
「じゃあ、ちょっと息抜きしなくちゃね」
言って、尚香はそれまで後ろ手に持っていた箱を前に差し出す。
「はい?」
「お茶うけ。いつも、頂いてばかりじゃ、申し訳ないもの」
ちょっと驚いたように箱と尚香の顔を見ると、陸遜はふわりと笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、頂きましょうか」
にこにこと微笑みながら答える陸遜に、尚香も自然と笑みを浮かべる。
いつもの時間、いつもの休息。
以前、黄桃の木の上で息抜きをして以来、いつの間にかこれが日課のようになってしまっていた。
力を抜いて、素に戻ってみよう、という尚香の提案に、一瞬、陸遜はあっけにとられていたのだが、すぐに楽しそうに笑い出した。『それも、いいかもしれませんね』と言いながら。
「頂き物で申し訳ないんだけど……ちょっと、一人では食べきれないから」
そう言う尚香の前で箱を開けて、陸遜はしばし絶句した。
箱の中には、一杯のお饅頭。
「……確かに、一人では辛いですよ、ね…」
でも、二人でも辛いなぁ、これ…と、漠然と思いながら陸遜は答える。
「余ったら、権兄様にでもあげるわ。策兄様にはあげない」
尚香の言葉に、陸遜はぽかんと尚香の顔を見返し、そうして苦笑した。
「そうですね。仲謀様にあげましょうか」
にこにこと笑いながら言う陸遜に、尚香もうんと頷いた。
「それじゃあ、頂きましょう」
良い香りのする茶を頂きながら、二人はしばしの休息を味わう。
と、その場にノックの音。
「伯言。ちょっと、いいかな?」
孫権の声に、はい、と陸遜が答えて、顔を覗かせた孫権は、あれ、とつぶやく。
「もしかして、お邪魔だったかな?」
あれなら、後にするけれど、と言う孫権に、陸遜は苦笑した。
「いえ、よろしいですよ」
「すまない、すぐに終わるから」
いいわよ、別に〜、と答える尚香に苦笑しながら、孫権は陸遜に事務的な事を尋ねていく。
それに答えている陸遜を見ながら、こういう時も好きなんだけれどなぁ、と尚香は思う。
生真面目に受け答えしている陸遜も、時々、力を抜いたように笑っている陸遜も、そして、戦場で軍師として真剣な表情をしている陸遜も、全部。
そう、全部、大好きだから。傍に居たいと思ってしまう。
「うん、すまない。ありがとう、伯言」
不意に、我に返ったのは、その孫権の言葉だった。
あれ、もう終わり?というような尚香の顔に、何だ、と孫権は笑う。
「一日、伯言を借りててもいいのか、尚香?」
「えっ!?それは駄目っ!」
思わず勢いよく答えてしまって……はっと気づけば、困ったような、嬉しいような、そんな表情を浮かべた陸遜の姿があって……尚香は、しばし絶句する。
そんな二人を見て、孫権はくすくすと笑った。
「もうっ、権兄様っ…!」
「ははは、すまない。でも、まぁ、いいんじゃないか、息抜きぐらいは」
うん、と頷いて…思い出したように尚香は言う。
「あ、権兄様。一緒に、お茶でもどお?」
「……うーん…そうしたいのは山々なんだが……子敬が早く帰ってきてくれと急かしてたからなぁ」
魯粛の名前に、何だ、と尚香はがっかりする。
「じゃあ、仲謀様。代わりといっては何ですが、お饅頭をどうぞ」
陸遜の言葉に、へ?と、孫権は振り返る。
「饅頭って……うわっ!」
箱一杯の饅頭に、孫権は面食らったような声を上げた。
「どうしたんだ、これ…;;」
「もらっちゃったのよぉ。伯海が大量にくれたの」
「…何でまた…;;」
「春だからって、訳わかんないこと言ってたけど。『春ですから、お茶請けにでもどうぞ、尚香様』って」
一瞬、ぽかんと妹の顔を見返して…そうして、孫権は笑いだした。
「ええっ?何、何なの、権兄様っ!」
「い、いやっ……伯海が………あはははははっ!」
「??」
首をかしげている尚香と裏腹に、陸遜は顔を赤くしていた。
「す、すまないっ……つ、ついっ…」
くすくすと笑いが収まらないままに、孫権は陸遜を見る。
「仲謀様……」
「まぁ、色々と話が飛び交ってるらしいけれどもな。ゆっくり、自分のペースで行けばいい」
にこにこしながら言う孫権に、はぁ、と陸遜は顔を赤くして答える。
「……権兄様?」
「うん、じゃあ、饅頭でももらっていくよ」
二つほど受け取って……孫権は急に気づいたように陸遜を見た。
「ごめん、もう一つ二つもらってもいいかな?」
「余ってますから、構いませんけど…仲謀様?」
「うん、幼平にもあげようかと…」
苦笑混じりに言う言葉に、ああ、と陸遜は納得したように頷く。
「いつも迷惑かけっぱなしだから、幼平には。たまには、ゆっくり休憩しなくちゃ、な」
「そうよ。力入りすぎはかえって疲れるもの」
尚香が頷くと、陸遜も頷いて笑う。
じゃあ、お邪魔したな、と出て行こうとして…ふと、思い出したように孫権は尚香を振り返る。
「そうだ。昨日、程公があそこを通ったら、もう咲いていたって言ってたぞ、尚香」
その言葉に、弾かれたように尚香が立ち上がる。
「本当、権兄様っ!?」
「ああ。七分咲きってところみたいだったから。行ってみたらどうだ?」
ありがとうっ!と、嬉しそうに笑う妹に笑い返して、孫権は部屋を出て行った。
「そっか…咲いてるんだ…」
「尚香様…?」
怪訝そうに尚香を見る陸遜に、尚香はよし、と頷いて言う。
「ごめん、伯言。ちょっとだけ、つきあってもらえるかな?」



広々とした草原に、所々に淡い色合いの花が咲き乱れていた。
可憐で、それで居て何処か毅然とした花。
「…綺麗、ですね…」
しばしその風景を見つめて、陸遜は感嘆したようにつぶやく。
「うん。…なんて花かは、知らないんだけどね」
ちょっと笑って、尚香は答える。
「昔……父様と、ここに来たの」
何処か遠くを見るように言う尚香を、思わず陸遜は見つめていた。
「私はまだまだ小さくて…でも、父様と一緒なのが凄く嬉しかった。ここで、この花が咲き乱れているのを見つけて、父様が言ったのよ。『なんだ、尚香に似合いそうな花だな』って」
だから、と尚香は陸遜の方を振り返る。
「だから、ここは、大切な場所。父様との、思い出の場所だから。…だから、ね。伯言にも、この風景を見て欲しかったんだ」
大切な、人だから…。
小さく、後に続く言葉に、しばし呆然としたような表情を見せて……そして、陸遜はふわりと笑みを浮かべた。その、素のままの綺麗な笑みで、尚香を見つめる。
「ありがとう、ございます」
それ以上の言葉は無いけれど、想いは伝わったから。
だから、尚香も微笑んだ。
ただ、咲き乱れる花の中、静かにすぎていく時を感じるだけだったけれど…それでも、幸せだったから。
「…来年も、ここに来ましょうね」
そう言った陸遜の言葉に、尚香は笑んだまま、頷く。
来年も、二人で……。





     花が咲いた、と聞いたのはいつのことだったか……もう、思い出せないけれど。

     けれど、その知らせはいつでも届くから……。

     来年も、二人で。花を、見に行きましょう。




                                 
以下、風駿雅さまのコメントを抜粋です。

花音(かいん)という言葉は、「花の咲いた知らせ。花の便り」という意味です。
孫堅との尚香の思い出、が今回のテーマ。その、大事な場所に陸遜を連れて行く事の意味。
何となく、「私の彼氏だよ。よろしくね、父様」という尚香の思いがあるような気がします。

+++

風駿雅様、ありがとうございましたvv可愛すぎる尚香に骨抜き状態です(笑)
私の彼氏、と(心中で)紹介する尚香、想像するだけでとても可愛らしいですねvv
個人的には権兄に向かって、陸遜を貸すのは駄目だと、思わず本音が漏れたところが最高でしたvv