+捧ぐ杯+




 風。
 巡り来る春の訪れを告げる空の無邪気な戯れが、張遼の着衣の裾を弄ぶ。
 供も連れず、愛馬にも騎せず、戦場の友すらも腕(かいな)には抱かず、張文遠はただ一人、城外に広がる草原に出でた。
「――」
 雲流れゆく蒼き大流。一人の人間が送る視線など気にも留めない風情の天地に、張遼はふと、携えていた杯を挙げる。
 静かに結ばれた唇の奥より、紡ぎ出される声は無く。
 張遼は一人ただ一心に、その杯を掲げ続けた。

 そも、その姿紅き稲妻。
 愛馬の腹を蹴り続けながら、張文遠は前を駈け往く二つの影に目を向ける。
 その試みは、ものの見事に失敗した――行く手に乱れ立つ木々の小枝が、視界いっぱいに広がって。
「うお!?」
 咄嗟に片腕で顔面をかばい、やれやれとひとつ溜息をこぼす。
 その日。
 呂奉先――前方を駈ける紅き稲妻――に供を命じられたのは、小春日和とはまだ言い難い寒さの残る頃のことだった。
 唐突な主命にも手慣れたもので、練兵は一旦高順に委ねて張遼は呂布の『護衛』に回った。主と、そして主の奥方と――自分。従者すら連れぬ三人の野駈けは、特に珍しいことではなかった。
 野駈けは――だ。
「ほ、奉先様…!」
 自分から近い方の人影――貂蝉の悲鳴じみた声が聞こえる。
 いつも穏やかな奥方にしては、少々珍しいことだった――どうやら彼女も張遼と同じく、山中に伸びる道無き道をかっ飛ばすのは生まれて初めてのことらしい。
 まあ、それは当然至極なのだが……。
(しかしまた、何故?)
 断りどころか赤兔に騎してより一口の言も発しないまま、呂布は獣道に飛び込んでいった。常ならぬ態度とその行動に、張遼も――そして恐らくは貂蝉もまた、浮かぶ疑問符を禁じ得ない。
 その符号が――消えた。
「――!」
 唐突に木々の連なりが途切れ、広がった世界に息を呑む。
 手を伸ばせば届きそうな底抜けの蒼穹。彼らの後ろから視界の彼方へ、ゆっくりと流れゆく白雲の群れ。
 何を見たのか――一瞬、思考が追いついてこない。
 眼下に広がる下丕の原野は、小島のような城を浮かべてさながら緑の海原のよう。
 遠く流れる泗水の水面が、まだ強くない陽の光に映えきらり、きらりと輝きを放つ。
 下丕城近郊の山の中腹、わずかに突き出した断崖の上で、二人は暫し声を詰まらせた。
「奉先…様…?」
 口元に手を当てた貂蝉の声には、涙の色すらもうっすらと滲む。
「これを…見せたかった」
(呂布殿…)
 振り返らぬままに呂布は言う。面(おもて)に刻むその表情は、張遼の位置からはうかがい知れない。
「ここを見つけたのは暫く前でな。すぐ連れて来ても良かったのだが……柄でもない。今日まで勿体をつけた」
「今日?」
 呟いて――貂蝉が息を呑むのが判る。
「ああ…俺とお前が会った日だ」
 かつて。
 洛陽は、今は無き司徒・王允の館で、飛将軍・呂布はこの歌姫と巡り会う。
 主が宴席に招かれた日も、春先にしては冷え込みが厳しく空も随分と高かったことを、張遼はふと思い出していた。
 同じ空が――今、すぐそこにある。
 何故か少しだけ不満げに、呂布は近づいた蒼天を見上げて、
「本当は、もう少しましな日を用意する気でいたのだが…知らんのだ。こんなことなら王允に聞き出しておくのだったな」
「それは?」
「………」
 主は、何やら言い淀んだらしかった――ひょっとして照れているのだろうかと、張遼が本気で疑った刹那、
「貂蝉の生まれた日だ」
「え…」
 目を丸くする王允の養女に、「いや、判っている。だが、年に一度の祝い事くらいやっていただろう…その日
に合わせたかったのだが」
 直に訊いたら悟られたろうしな。ぶつぶつと続ける呂布の背中に、そっと繊手が添えられる。
 貂蝉。
「嬉しゅうございます」
「…そうか」
 いつしか赤兔の背に乗って、純白の美姫は広い背中にそのほそやかな体を預ける。
「あの日から…私は、生まれ変わったのだと思いますから」
 ――それが――
 その言葉が示す意図を悟って、張遼は思わずかぶりを振るった。
 傾国と謳われし女性が浮かべた、白く穏やかな嘲りの色を、張遼は直視したくなどなかった――
 が。
「そうか」
 呂布が続けた次の言葉に彼女が刻んだ一瞬の面は、張遼の記憶に永く留まり続けることになる――
「ならば…今日で良かったのだな」
 声も無く。
 貂蝉は、彼の背中にその顔を埋めた。
 溢れかけた水をせき止めるように。震える唇を、落ち着けるように。
「めでたい」
「………」
 その、姿。
 この世ならざるものとすら思える、壮大な世界のただ中で。
 涙も、嗚咽もその場には無く、静かに佇む一組の男女を、張文遠はいつまでともなく、真っ直ぐに見詰め続けていた――

 結局。
 呂布が何故、張遼をあの場に伴ったのかは、最後まで判ることはなかった。
 彼にとってはあの日のことも、いつもの野駈けと同じようなものだったのか――それとも何か別の意図が有ったのか、今となっては知る術も無い。
 去り往きし者に問う声は届かじ――
「呂布殿…奥方」
 小さく――小さく呟いて、張遼は手にした杯をあおる。
 あの時と同じ春の日に、吹き渡る風と汲み交わす酒は、果たして祝杯――か、それとも。
 緑の海原に取り残された、もの言わぬたった一人の男は、両の眼(まなこ)を閉ざし佇む。
 去り往く者に届けんがために、紡ぎ出される声は無く。
 風は流れ、草原はうねり、悠久の天地を挟む大河は変わらぬままに時だけを刻む。
 あめつちの狭間生きる男は、今年もただ一人、杯を挙げる。

 了




誕生日のお祝いということで、いただいてしまいました。文遠さ〜ん(呼ぶな)
文遠さんには「見守る者」というポジションが似合う、とはサソリ屋様のコメントですが、私も同感です。
照れ屋な呂布も貂蝉も可愛く、とても素敵な作品をありがとうございましたvv