+想別+




「いつまでも一緒にいてくれる?」
 いつだったか、話したことが有ったね。
「どこにも行かないでいてくれる? 父様や策兄様たちみたいに、私を残して遠くへ行かずにいてくれる?」
「そう願う」
 貴方の答えは、その時は随分頼りなく響いた。
「何それ」
「約束することは出来ないのだよ。定かではない。未来も、何より人の心は」
「何よそれ。関張とは誓えて私とは駄目なの?」
 殺し文句、のつもり。私を前にすると、貴方はなかなか断言してくれない。長く生きてきて若い頃とは変わったのだと思うけど、その時の私は気にもしなかった。頷いてほしかった。口約束でいいから。
「流石に痛いところを突いてくる…」
 苦笑いをする貴方の側に、私は思いきり詰め寄って、言った。
「もういい、わかった!」
 力いっぱい噛みついて、一目散に逃げていったっけ。
 声に出さないで叫んでた言葉、貴方には届くと信じていたから……。

 どこか遠くへ行こうとしても、絶対逃がさないからね。
 どこまでだって追いかけて行って、ずーっと貴方の側にいてあげる。覚えときなさい。逃げられないからね――

「なあんて、さ」
 振り払うように、照れ笑うように。
 蒼穹に流れゆく雲を見上げて、孫尚香は呟いていた。
 長江の、断崖。ゆったりと佇む栗色の頭髪を、渡る風たちが縦横に弄ぶ。
 あの時灼熱を乗せた風が。
 ――夷陵。かつて戦の炎に巻かれた、大河に少しだけ突き出した崖の上。一年ぶりに訪れたその地は、愛する人が去ったあの日と変わらぬ風を吹き往かせていた。
「結局、離れていったのは私の方からだったんだよね」
 浮かべた笑みを消さぬまま、そっと尚香は視線を落とす。
「貴方は追ってきてくれたのにね…」
 あの日。あの時。あの戦場で、差し伸べてくれたその掌を、私は刃を向けて拒んだ。
 今、同じ手に携えるのは、見事に芽吹いた一本の桃の枝。それと同じ木の枝が二本、野の淵に丁寧に植え差されている。
 一昨年の。それから、昨年の“献花”。
 一年に一度、この場所を訪れ、彼の者を弔う彼女の姿を知る者は少ない。去って行った。多くの命が。大好きな人々が。
「今年も、いいのを持ってきたつもり」
 手の中のものを掲げて見せるが――今年は、地面に差すことはしない。
 代わりに。
「………」
 ゆっくりと、尚香は足を踏み出した。
 一歩。さらにもう一歩。つま先が浮く程の崖淵に到り、尚香はようやくその足を止める。
 そのまま、動かない。両の眼を閉ざし、おとがいを上げて。突風が吹けば、たちまち崖下へ転落しかねないまさに極限の生死の際で、弓腰姫はいつまでとも知れず立ち尽くす。
 ――やがて。
「…あのね」
 そっと、尚香は目蓋を開いた。
「最近、気づいたことが有るんだ」
 言の葉を、紡ぐ。それには、勇気が必要だった。恐怖が伝う。形にせんとするこの確信が、ともすればあの人と歩んだ時間を否定してしまうような気がして。
 けれど。
「定かじゃないって。未来も、それから、人の心も」
 安らかに、厳かに声は滑り出る。
 どこまでも追う、と言った約束。それを果たすのは、あまりにも簡単だ。
 身を投げればいい。眼下の大河へ。
 長江。命の還るべき場所。還っていったあの桃園で、貴方は私を迎えてくれる。私の命が還るべき場所は、多分、貴方の腕の中だから。
(そうすれば、二度と離れなくて済む。いつまでも……きっと、永遠に)
 きゅ、と掌に力が籠もった。雲たちが足早に駆け去ってゆく、夷陵の空と向き合う面(おもて)に――消えていた、晴れ渡る笑みが刻まれる。
「でも、それは出来ないんだって」
 大きく手を広げ、尚香は言った。
 そう、出来なかった。三年。この三年の間、大河を見る度、この場所に来る度、幾度となく貴方を追おうとしたけど、遂に果たすことはなかった。生死を分かつ一重の狭間で、心は必ず最期の一歩を踏み出すことを拒絶した。
 当たり前だと、尚香は思う。あまりにも自然に側に在り過ぎて、今まで気づけなかった想い。
「だって、私は生きてるんだから」
 生きているこの今、生きていきたいから。
 どうしても貴方を追えなかったんだ。同じ空の下に貴方がいなくても、この気持ちを抱いて、もう少し居たい。
 もう少し、私はこの場所に居たい――
「だから…だからね」
 紡ぐのを終えるその唇が、微かに震えていたか――否か。
「貴方を追うのは…もう、お終い」
 しなやかに彼女の右の手が動き、桃の木の枝が空へ放される。
 吹く風に花びらを羽ばたかせながら、あの人が愛した春の訪れは真っ直ぐに流れへと舞い去っていった。

「…あれ?」
 別れを済ませ、振り向いたそこには。
「どうも」
 帽子を押さえ軽く会釈する、陸伯言の姿が在った。
「陸遜も用事?あの人の桃園に」
「ええ」
 何気ない顔で首肯する。
「待たせちゃったんだ。いつからいたの?」
「貴方を追うのはもうお終い、からです」
「今来たんじゃない」
「そうとも言いますね」
 へらへらと笑う若者の腕には、小さな花の束が揺れていた。その名前までは判らなかったが、紫の色をした、控えめな雰囲気をたたえた花だった。
「今日を逃すと、次はいつになるか判りませんからね」
「…そっか。そうよね」
 尚香はともかく、この陸遜が夷陵に来る機はそう滅多に無い。天下二分のこの情勢では、大都督自らの荊州視察など一年に一度有るか無いかだ。
「それじゃあ、好きなだけ挨拶なさいな。その花、結構いい趣味じゃない?」
「ええ…そのつもりだったのですけど」
 何故か、わずかに首を傾げて。
「尚香様がそういう趣旨なら、私もやめておく気になりまして」
「な、なんで?」
 思わず尚香は戸惑ってしまう。
「別にそんなの、何も陸遜が気にすることじゃあ」
「いいんです。――それに」
 こちらの言葉を断ち切ると、強引に――紫の花束を押しつけてくる。
「せっかく花を捧げるのなら、もっと相応しい相手がいますしね」
「は…」
 反射的に、それを受け取って。
「…な、何してんの、馬鹿っ!」
 泡を食いながら江を振り返り、空いている方の手で陸遜を追い払う。
 体温が上がる。顔が真っ赤だ。陸遜め、何ということをするのか。照れて足早に立ち去るか、目でも泳がせばかわいげも有ろう。頬のひとつも染めることなく泰然としているその佇まいよ。そもそも同じ花を渡すにも、何もこんな場所、この時でなくても――!
「手加減するのは無意味ですからね。こういうのは」
 わけのわからないことを言い捨て、若者はあっさりときびすを返した。
「用が済んだなら次へ行きましょう。近くまで来て顔を見せないとムクれる人は他にいますから」
「甘寧のこと?」
「早く行かないと、明日の朝、烏に襲われてしまう」
 尚香も彼を追ってみるものの、一向にその差が詰まらないのは本気でそのことを案じているためか、もって生まれた彼の早足か――果たして。
「あは」
 軽く声を挙げ、尚香は笑った。
 ――そういうわけで、玄徳様。私はもう暫く生きていきます。
 授かった命と。今、この世界と。
 彼と? さあ。それはこれから考える話。




やっぱり劉尚も好きだなあ・・・と思った私は浮気者です(笑)
無双4では劉備の後を追わなかった尚香、前を向いて生きていながらも、時には振り返ったりしますよね。
死者を思いながらもどこか爽やかな文章で、心が洗われる思いです。ありがとうございました。