+View of the sky high+




 駈けてゆく。
 紅き飛燕に背後を預け、孫仲謀が落ち延びてゆく。
 合肥の戦場はや遠く、張文遠の軍に追われて、脱兎と逃げる総大将――
 その様を、陸遜はじっと見詰めた。
(………)
 何故、だろう。心中は、妙に穏やかであった。澄み切っているというべきか――
 張遼の追っ手はすぐ後ろにまで迫っているのに、意識が前方にしか行かない。
 前方に。
 孫権が見せる、無防備な背中に。
「………」
 ふと、気づく。
 自分の右手が、得物の柄に伸びていることを。
 事実に、生唾を呑み込むでもなく――
(今なら……)
 今なら。かすかに声になる。
 今なら。そう、今ならば。
 全てが、自分の望むがままだ。転がる首級も、舞う血飛沫も、思うがままに、欲するがままに。
 今なら。今なら。今なら。今なら――
「陸遜っ!」
 はっ――と――
 かけられた声に我に返ると、一喝の主――すぐ前を駈ける孫尚香に目を向ける。
「はい?」
「遅れてるってば!急いで急いで!」
 言われて初めて、そのことに気づく。
 少し前まで、尚香と共に主君の傍らを駈けていたはずが、今では旗本たちにすら抜かれて、最後尾に一騎孤立している。
 彼女は恐らく自分を案じて、ここまで下がってきてくれたのだろう。
 ――焦燥に満ちた、その顔を見やって――
(今更…気の迷い、ですよね)
 握りしめていた得物の柄から、陸遜はそっと手を放す。
 が。
「最後尾、ね」
 何やら楽しげに、零す陸遜。
「尚香様」
「何!?」
「ちょうどいいです。殿軍やります」
 それだけを、にこやかに宣言し。
「ちょっ――」
「殿の護衛はお任せしますよ!」
 一方的に言い残し、くるりと馬首を反転させる。
 尚香の声を、遠く背後に聞きながら、陸遜は今度こそ短剣を抜いた。
 不気味なほどに澄んでいた意識が、今は少しずつ波打ってきている。
 どこぞの同僚の言葉を借りれば、血がたぎってきたといったところか――
(ほうらね。やっぱり気の迷いでした)
 いつも通りの微笑みを浮かべ、陸伯言は遠くを見やった。
(彼女が涙を流すようなこと、私が望むはずありませんもんね…正気なら)
 静かに補足したその刹那。
 張文遠の騎馬隊が、視界の彼方に見えた気がした。

 曹魏最強と謳われし騎馬隊。
 基は稲妻か、激流か。半ば常識外れの速度で、彼らは孫権を猛追していた。
 先頭を駈ける張遼の目に、標的の旗本が上げる砂塵がかすかにかすかに見て取れた――
 刹那。
「ちっ…!?」
 合肥の戦神は舌打ちをひとつ、咄嗟に留めた愛馬の上で、鈎鎌刀を一閃させる!
 叩き落とされ――一本の火矢が転がった。
 馬の鼻先をかすめるように、足下にも一矢突き立っている。
 つられて立ち止まる後方の騎馬に、もうひとつだけ舌打ちをしてから、
「あれぇ…?」
 わざとらしく響くその声に。
 張文遠は首を巡らし、道ばたに生える木の上に佇む火矢の主を見て取った。
 陸伯言――
「外れましたか。まあ確かに、張遼殿に火矢は効かないとかいう噂は耳にしまし
たが」
「万里の長城の向こう側でな。超人が放つ火矢にさらされた」
「なるほど…。人外の力にかなうわけないや」
 へらへらと笑い、手にした弓を捨てる陸遜。
 ひどく泰然としている飛燕に、
「殿軍というわけか」
「そんなところです」
「――!」
 その答えを待っていたかのように、横一文字に手を振るう張遼。
 行け、と声に出すまでもなく、騎馬が一斉に駈け抜けていく。
「…………」
 どことなく不満げに目蓋を落として、陸遜はじっとその様を見詰める。
「すまぬな」
 馬蹄の音が鳴り響く中で、朗々と響く張遼の声。
「単身で我らの前に立つ剛毅、全軍で敬意を表したかったが――生憎と、こちら
も戦果は逃せん」
「いえいえ。あなた一人で充分」
 やはりにこにこと告げながら――陸伯言は、両の得物を抜き放つ。
 双剣・飛燕。疾空の刃。
「あなたさえここに留めておけば、あとはあの人がおおむねどうにかするでしょうから」
「おおむね、な…」
 だらだらと紡がれるとぼけた口調に、流石に張遼は苦笑する。
「さて…そろそろ始めてくれぬか。おおむねどうにかなっているところに、横槍
を入れに行かねばならん」
「はいはい。でもすみませんねえ。私こういうの本業じゃなくって」
 とんっ、と。
 足底を委ねる枝を蹴飛ばし、宙空に舞う真紅の飛燕。
「軍神殺しも、守護神も、鈴の武神も出払ってまして」
 誰かさんのおかげでね。こっそりと付け足す彼の殺気が、猛烈な勢いで膨張していく。
 真っ正面から、それを受け止め。
「燕帝陸遜。やむを得ずお相手」
「お見事!」
 青龍刀が、天空を衝いた。

 龍が雄叫び。
 燕が舞って。
 火花舞い散る二人の戦場。そこに、小さな呟きが疾る。
「おかしなものだな…」
「…?」
 その手は決して休めぬままで、かすかに届いた戦神の声に、燕帝はふと眉をひ
そめる。
「……………何か」
「貴公の刃に、迷いは無い。両の切っ先が狙っているのは、紛れもなくこの命の
はずだ…が」
「が!?」
 ギンッ!!
 青龍の牙と交差した剣。交わり、ぶつかり、競り合って。
「何なのだ…?太刀筋に潜む、このひどいよどみ…」
「………!」
 声にならない気勢を上げて、陸遜は敵の刃を弾いた。
 大きく後ろに跳びすさりながら――その表情が、笑みを刻み込む。
 それは、嘲りのものであったか。
「…バレましたか」
「意味も無く聡くなってしまった」
「結構なことです。孫仲謀の懐刀に、あっさりとよどみを見つけてしまった」
「………」
 懐刀。
 零れた言葉が、ひどく奇妙に響いた気がした。
「お察しの通り、一歩間違えば鞘から飛び出して主の胸を刺す刀でしてねえ」
 実際、さっきの今だって。
 微笑みの裏で、陸遜は思う。
 憎悪は消えない。大切な人をその手に討たれて、一生を狂わされた恨みは。
 消えることはない。絶対に――消えない。
「いくら時が流れても、仇は仇に変わりないでしょう?元呂布軍の二枚看板氏」
「――そうだな――だが変わらぬのは、怨念も同じか?」
「少なくとも私にとってはそうです。けど」
 すぃっ、と。
 その目を細めた若き燕は、底抜けの蒼穹に目を馳せる。
「空の上から見下ろしてみると、何だか小さく見えちゃいましてね…報仇雪恨なんていうのは」
 紡がれた言葉に。
 一番衝撃を感じているのは、陸遜自身かもしれなかった。
 そうなのか。本当にそうなのだろうか。頭蓋を内側から揺らす疑惑に、しかし否とは答えられない。
そう――なのか。
「それでもやっぱり、憎いものは憎いんで、時々よどんだりしちゃいますよね…
低空飛行はするもんじゃないな」
 半ば我知らず口走る文句を、他人のもののようにして聞く。
 混乱している内面を、見破られたとも思えなかったが。
「ならば、何故だ?」
 張文遠は、問いかける。
「幾度と無くよどんだであろう刃が、血塗られなんだのはなにゆえだ?孫の旗の下に参じて、貴公は長き時を過ごした」
 時折に襲う甚烈な殺意を、留め続けたのは何だったのだ――?
「それは」
 一瞬、口をつぐみかけ。
 陸遜の目に――それが映った。
 逞しい二枚の翼で羽ばたき、天空より見下ろす遙かなる大地。
 そこには、小さな小さな炎と。
 あまりにも悠遠なる大流と。
 そして――
「ほら」
 天翔る飛燕は、両の手を広げた。
 眼下を埋めるその烈光を――翡翠の輝きを抱き止めるように。
「どんなに高く飛んだところで、涙って――見えてしまうじゃないですか」
「…………」
 その眼を閉ざす、騎馬の青龍。
 目蓋の裏に広がる空から、張遼は果たして何を見たのか――
「私は、それを見たくない。それが理由だと思いますね……たった今思いついたんですけど」
 今までも。多分、これからも。
 常と変わらぬ微笑みの裏に、何やら面はゆい想いがよぎった。
「そうか…そうだな。得心がいった」
「それは良かった。さて、張遼殿」
 飛燕は、龍の名を呼んで。
 刃が風を切り裂く音が、蒼穹の下に鳴り響く。
「そういうわけです。貴方にあの人を斬られてしまうと、嫌な光を見るはめになるので」
 切っ先、曇り無き光を纏いて。
「とことん阻ませていただきましょうか」
「試してみるがいい。どこまでやれるか――!」

 はっ――
 陸伯言の、意識が戻った。
 四肢を投げ出し、大の字になって仰向けに倒れ込んでいる。体の節々がずきずきと痛み、血も失われているのが判った。
(そうか…負けましたか)
 垂直になった視界の中央、叩き折られた双剣を捉え、かすかに――かすかに吐息を漏らす。
「…それで?」
 零した溜息が聞かれなかったか、疑いながら声を発した。
「どうしてとどめを刺しませんでした?」
「さあな」
 相手の姿は、見ることが出来ない――首を反対側に倒せばなんとか視界におさまるはずだが、体が全く言うことを聞かない。
「空の上から見下ろしてみると、あるいは貴公にも判るかもしれん。もっとも、龍と燕では見え方が大分違うであろうが」
「……貴方……憎まれ口とか叩くクチでした?」
「誰とは言わないが、影響を受けてな」
 隻眼の将のくしゃみでも見えたか、相手の声が苦笑ににじんだ。
「さて――私は帰るとしよう。孫呉の喉笛も食いちぎり損ねたことだしな」
「へえ…?」
「そうそう。それで思い出したが」
 遠くへと離れかけた気配が、ぴたりと止まり、振り返る。
「何か」
「翡翠の光を見たくなければ、こういう真似は二度とせぬことだ。お陰で私まで見るはめになった」
 それっきり――
 蹄の音だけを後に残して、張文遠は立ち去っていった。

 ほどなく。
「陸遜――!」
 いまだ動けぬ陸遜の許に、一頭の白馬が駈け寄ってくる。
 騎上には、翡翠の、瞳――
「陸遜っ!」
 孫尚香は馬を飛び降り、彼の体を抱き起こす。
「尚香…様」
「馬鹿…!」
 そのまま、胸に顔を埋めて。
 彼女の腕から伝わる震えと、着衣が水を吸うのを感じて、陸伯言は尚香の背に手を添えた。
 ――結局、宝石は輝いてしまった。けれど涙に込められた想いは、悲しみでなかったのだから、これで満足しようではないか。
 張遼の追撃よりも苛烈な、凄まじい睡魔に身を委ねながら、陸遜は自分に言い聞かせ続けた。

 了


張遼・陸遜・尚香と好きキャラが揃い踏みで、含み笑いが止まりません(笑)
腹黒で可愛い陸遜と、素敵な文遠さんとの絡みとか……本当にありがとうございました。多謝ですv