+雪、来訪者約一名+
「――っくしぃっ!!」
盛大極まる一発のくしゃみが、静寂に包まれた夜の時間を粉々に粉砕してくれた。
くしゃみと――この屋敷の主である呂蒙子明は、ぐずぐずと鼻を鳴らしてひとりごちる。
「寒いな…」
向き合っている机の上に、日付まで記し終えた一通の書類。
十二月十三日。
「…当たり前か」
筆を置き、呂蒙は背もたれにその身を預けて腕を組む。
目を閉じると、部屋の中央に鎮座する火鉢がぱちぱちと爆ぜる音だけが鼓膜を揺らした。
辺りを支配するのは、戦場で伏兵として潜むときのそれとは明らかに違う、安らぎに満ちた優しい静寂。
自分がかき乱した静寂(しじま)など、刹那のうちにそれに呑まれて過去へと消えた。
乱世も同じかもしれない。ふと、そんな想いが脳裏をよぎる。
今年の春には、江夏を攻めた。先々代の仇・黄祖は、甘寧の一矢の前にいともあっさり滅びていった。
曹操軍と赤壁で対峙したのは、この秋だ。紆余曲折の果て、自分たち以外誰一人予想し得なかった勝利を得て孫呉は生き延びた。
だが、それが何だというのか。
勝ち鬨も、あるいは焼き尽くした大船団も、時の、長江の流れに埋もれて過去へと消えゆくのみではないのか…。
と。
「…う〜」
――という呻きを耳にして、呂蒙は窓の外へと目をやった……その刹那。
ずばぁんっ!!
「寒〜〜〜〜〜いっ!!!」
時の流れに埋めるには惜しいくらいの大音声をおまけにつけて、赤い物体が飛び込んでくる。
「寒いよ寒い寒いねえりょもさん寒いったら寒いのよねえそうでしょっ!?」
…閉めといた雨戸が全開になっとるということは、こいつは窓から突入してきたのだろうな…。
どうでもいいことを見極めてから、呂蒙の視線は火鉢の前で震える人影の方へ向けられる。
「…ああ。寒いな」
「でしょ!?」
赤い物体――あるいは震える人影たる孫尚香は、翡翠の瞳に涙すら浮かべて訴えてきた。
「なんで建業に雪なんか降るのよ〜…」
「雪?」
言われて初めて気づいたが、彼女が開け放った(雨戸に亀裂を確認)窓枠の上から、闇に紛れて白い結晶達が舞い降りている。
「ほう」
「さーむーいーよおおー!」
「珍しいな…根雪になるぞこれは」
なんとなく笑いながら、尚香の肩に積もった雪を落とそうとして――やめた。
私的な場ではこうしてツーカーで通じているが、この娘は主・孫権の妹君だ。
軽々しく触れるは無礼の極み。
「何よ?」
「いや、何でもない」
誤魔化すように戸を閉める。
「りょもさん」
「何だ?」
「肩と…頭に乗っかってる雪。悪いけど落としてくんないかな」
「…………」
まあ、本人が言うのなら。
無礼の極みは脇へと捨てて、あっさりと言われたとおりにする。
…カタブツの代表という自己認識が誤りだったと、つくづく思い知る最近の呂子明なのであった。
夜更けということで従者を起こすわけにもいかず、呂蒙は自ら湯を沸かしに向かう。
火鉢を挟む形で尚香と向きあい腰かけると、布団にくるまって小山のようになっている彼女が嬉しそうにそれをすすった。
…無骨な手つきで触れたために乱れた髪がそのままなあたり、まあいかにもというか何というか。
「ありがとりょもさん」
「ああ」
幸せそうなその笑顔。血行が戻り、青ざめていた頬と唇にもとの明るさが広がっていく。
思わず、ほほえみ帰した。
「…やっぱり冬って嫌いだな」
「ありとあらゆる点から言って、お前さん人間になる前は猫をやっとっただろう。それも野良猫を」
「にゃ〜…」
愛想良くそんなふうに鳴きながら、恨みがましい視線を外へと向ける――雨戸が閉まっていて届かなかったが。
ふーふーと湯を吹きさます孫尚香を、呂蒙は自分の器にも少し注ぎながら観察した。
時折――大体七日に一度くらいの間隔で、この弓腰姫はこんなふうにしてやってくる。
おしゃべりは得手でない自分の所に、彼女が一体何を求めて訪れるのか…あるいは何を見出しているのか。
気にならないと言えば嘘になる。が、どうでもいいことだと思い始めているのもまた事実。
実際彼女は満ち足りた笑顔で帰っていくし、その表情が自分に確かな力を与えてくれる。
(それで、充分ではないか…)
充実した気分で笑みを浮かべて、猫舌の客人に合わせたためにぬるめとなっている白湯を一口――
「あ!?」
「ぶっ!?」
突然の大声に驚いて、喉を通りかけたぬるま湯がその場で大きく波うった。
ごへごへごへごふんっ!
「あー!あー!あー!」
むせまくる呂蒙を気遣おうともしないまま、尚香はこちらを指さしひたすら「あー」を繰り返す。
「な、なんだなんだなんだ!?」
「あー!あー!あ〜…」
…最後の一回は残念そうだった。
纏っていた布団もかなぐり捨てて、こちらへとにじり寄ってくる。
「あー…」
「?」
「りょもさん…」
「何なんだ?」
「ひげー!!」
「…は?」
「だから、無精ひげっ!!」
「…ああ」
言われて、いつもならざらざらとした手触りのある顎と頬とに手を当てる。
「伸びすぎたから剃ったんだが」
「馬鹿ー!!」
ばっちん。
理由は知らねど何やら思いきりひっぱたかれて、赤い手形が呂蒙の左頬を占拠した。
「………」
半眼になってにらみつけるも、尚香はしきりに悔しがるだけで全く意に介そうとしない――気づいていないだけかもしれないが。
「さわりたかったのにー!」
「さ…」
「りょもさんの無精ひげじょりじょりして気持ちよさそうだから触らせてもらおうと思ってたのに!
今日あたり頃合いだと思ったから寒い中我慢してここまで来たのにー!」
「俺のひげは冬の味覚の鍋ものかっ!?」
「楽しみにしてたのに〜…もういい!あたし帰るっ」
残っていた湯を一口であおると、頬をふくらませ立ち上がる尚香。
「言っとくけど明日の朝も来るからね!?ちゃんと生えてないと目の前で落ち込んでやるんだから」
「アサガオじゃないっ!」
べーーだっ!と力の限りに舌を出し、主君の妹君は来たときと同様の素早さで飛び去っていった。
「………」
窓のそばへと歩み寄り、未だ半眼の呂蒙はその腕を組みひとりごちる。
「…どうも、一つ教えられたようだな」
彼女が来てから去るまでの時間が、ほんの一瞬だったように感じられていた。
それなのに、なんだかずっと先まで忘れられないひとときだった気がしてならない。
「埋もれぬ刹那も有って然り…か」
そして、彼女の刹那は埋もれることなく留まり続けていくのであろう。
人々の、少なくとも自分の記憶の中に。この先どんなことが有ろうともだ。
「記憶はともかく、こんなものまで刻み込まれてはたまらんがな」
一人笑って、左の頬に触れてみる。ひげはともかく、この腫れは朝までに引い
てもらいたいところだ。陸遜あたりに笑われる。
「しかし、明日は晴れるといいな」
朝日に照らされ雪化粧した建業に、あの娘の赤は映えるだろうから…。
ふくれっ面の中で輝く楽しげな瞳を思い出しながら、呂蒙はゆっくりと雨戸を閉じた。
蒙尚が読みたいと喚いていると、サソリ屋様が書いてくださいました(笑)
呂蒙に甘えに行く尚香がめちゃくちゃ可愛いですv私も尚香の前世が猫に賛成(おい)
↑を読んで、バカな後日談を書いてしまいました。興味がある方はここからどうぞ。